2013年3月25日月曜日

例えばヒロ、お前がそうだったように



竹原ピストルが歌う


「例えばヒロ、お前がそうだったように」は


最新アルバム



『復興の花2+LIVE DVD』






の10曲目に収録されている。




この曲をはじめて聴いたのは


去年の8月5日


Floorでのライブだった。



(ちなみに、LIVE DVDにはこの日のライブの様子も収録されている)


俺は、不覚にも涙した。


それは、この曲が「ヒロ」の死を取り上げているからではない。



俺は感傷的な歌は好きじゃない。



感傷に浸ることは、



自己満足であり、



停滞であり、



何の価値も創造しない



と考えている。



普通、人の死を曲にすれば



それだけで感傷的な臭いが鼻につくものだが、



この曲は、ヒロに苛烈な言葉を浴びせて



感傷を排除している。





「消し忘れたタバコの煙のようなゆらついた眼差しの少年が、



 俺の視界をゆらゆらと横切っていく。



 睡眠薬たらふく食らって勝手にくたばったヒロ、



 おまえにそっくりで、あぶねーあぶねー、反射的に殴りそうになったよ。」





「そういやこの間、お前の親父から電話があったよ。



 出なかったけどな。



 めんどくせえよ、バカヤロー!」





「さておき、おまえ、この世で最も金髪が似合わなかったよな。」





「あのとき俺があげたギターをサトシってやつが持ってたぞ。



 おまえのツレだって言ってたけど本当か?



 嘘なら呪い殺せ!」



歌詞だけでなく、曲もBPMは速めで



歌声はあくまで力強く、湿度は低い。







この曲は、



竹原ピストルがポエム流れ弾の中で発表している



「例えばヒロがそうだったように」

http://blog.goo.ne.jp/pistol_1976/e/aa8ab5086734558863a979f5d1998779



という詩をベースにしている。



これを読めばわかるが、



この曲は「ヒロ」の「死」を歌ってはいるが



「例えばヒロ、お前がそうだったように」「ちゃんと人間か」



という「生」をテーマにしている。



俺は、「ヒロ」に会ったことはないし、



この曲を聴く限り



確かにロクでもないヤツだったのだろうから、



別に「ヒロ」のことを知りたいとは思わない。



ただ、この曲は、



「ヒロ」が自殺という



一般的には悲惨な死に方をしたのだとしても、



その生が決して否定されるものではなく、



生きていても「ちゃんと人間」でないような連中と比べて



「ちゃんと人間」のものだったことを



力強く宣言している。



この曲によって「ヒロ」は



真っ赤に真っ赤に輝く存在となった。





経験者にしかわからないと思うが、



自殺で身近な人を亡くすと、



あのとき、ああしておけば



とか



何であんなに簡単なことをしようとしなかったのか



とか



もっと会って話しを聞いてあげていれば



という考えが頭を離れず、



生きていればこれから楽しいことがたくさんあるはずだったのに



とか



おいしいものもたくさん食べさせてあげたかった



とか



いい服もたくさん買ってあげたかった



とか思うようになり、



そのうち



その人の人生自体が



ひどく悲しいものに思えてきて



感傷の誘惑に取り込まれそうになる。



俺は



遺品を整理していて



楽しそうな写真が出てきたとき、



ああ、こいつの人生にも喜びが詰まっていたんだな



と感じて救われたような気がした。



そして、



「あいつの生き様、死に様があって今の俺がある」



と言えるくらい頑張って、



その人の生と死の意味を形作っていくのはこれからの俺自身だとわかったとき、



感傷の鎖を断ち切れた。



もっとも、俺は自殺という行為自体を肯定するつもりはないし、



この曲も自殺を肯定しているわけではないだろう。



「ヒロ、おまえはあくまで俺的には、ギリギリ、あくまでほんとにギリッギリ、



 消えてなくなって欲しくない、まあ、そーだな。。友達だったぜ。」



と竹原ピストルが歌っているように、



彼にとって「ヒロ」は友達だったのだから、



「ヒロ」に対する苛烈な言葉とは裏腹に、



その死はとても悲しいものだったに違いない。



友達の死を曲にして、



それをライブで何十回、何百回と歌い、



CDに録音して永遠に残すことに対しては



激しい葛藤があっただろう。



この曲には、



そうした葛藤とその結実が行間から滲み出ている気がする。









俺がこの曲で衝撃を受けたのはこの部分だ。



「綴りようのない切実を切実という。


 綴れる程度の切実は切実とはいわない。



 全ては、“切実”でしか変えることができない。


 だから例えば、歌で世界を変えることはできない。
 

 歌で人を変えることはできない。


 世界を変えることができるのは、世界が抱く綴りようのない切実だけ。


 人を変えることができるのは、人が抱く綴りようのない切実だけ。」





未だかつて、



フォークギターを持った歌い手で



「歌で世界を変えることはできない」



と言い切った人がいただろうか。



ウッドストックよりこの方



フォーク歌手は、多かれ少なかれ



「歌で世界を変えられる」



という幻想を抱いていて、



それがフォーク歌手のアイデンティティーだと思っていた。



俺はライブでこの一節を聴いて



鳥肌が立ち、涙腺に大打撃をくらった。



そこへ次の一説が。



「俺もやってみたいんですけど、余ってるギターありますか?



 って言ってきたおまえと、やってみろよって、余ってたギターをプレゼントした俺。


 あの時の俺とお前以上に暇で愚かな人間っつったら、


 例えば、軽々しいことこの上なく、サークルのりでお祭り騒ぎ、


 原発賛成反対云々ケンケンガクガクわーわーきゃーきゃー


 やってるやつらくらいのもんだろうな。」

これで涙腺崩壊。


2011年の夏。


ある野外イベントである歌い手(宮崎の人ではない)が


「原発いらねえって思ってるやつは手上げてくれ」


みたいなMCをはさんで生ぬるいラブソングを歌ったとき


言いようのない違和感ともどかしさと怒りがこみ上げてきた。


この曲の表現を借りれば


「切実さ」のかけらもない「サークルのり」で


やる方もやる方、乗る方も乗る方だ。


自己陶酔だと気づいていないのがさらにタチ悪い。


本当に原発をなくしたいと思っているんであれば


そんなセリフ出てくるはずがない。


今度会ったら


「お前、あのセリフ吐いてから今まで何やってきたんだよ。


 で、お前の行動で原発ゼロにどんだけ近付いたんだ」


と聞いてみたい。



俺があのときから抱いていた違和感やらもどかしさやらを


他の誰でもない竹原ピストルに


ズバッと言い切ってもらったことが嬉しくて、泣けてきた。



「おまえのライブ、見てみたかったなぁ。



 おまえも歌うたいになればよかったのになぁ。



 持ち時間30分なら30分。1時間なら1時間。3時間なら3時間。



 それが歌うたいの寿命なんだ。



 わざわざ自らわざわざ永遠にくたばるまでもなく、



 毎日、毎回くたばることができて、



 そして何より、毎日、毎回生まれることができる、



 なんとも自分勝手で都合のいい存在なんだ。」



命を削ってライブをする



この歌詞が決して大げさなものでも、



かっこつけたものでもないことは



この人のライブを見たことがある人にはわかるはず。



あんな凄まじい気迫のライブを



年間約300本やっているというのだから



もうびっくりだよね。



また宮崎で見れる日が楽しみだ!



written by BigButterKen

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